クローン病闘病記 S氏の場合 NO.1

かなり長いです。

簡略化した病歴

始まりはたぶん北海道

昭和59年、当時17歳の『S』は、夏休みのお盆の時期を、
二人の友人と共に北海道で過ごしていた。
高校生活最後の夏休みに、
悪友二人とツーリングに出かけたのである。
コケたことも、パンクしたことも、すべてが楽しい思い出としてだけ残るはずだった。

しかし『S』はすべての始まりであるはずの(多分)体調の異常を感じていた。
下痢が止まらない。拭きすぎて黄門ちゃまがひりひりする。
「環境の変化と、単車の振動が原因だろう」と、
その時は大して気にもしなかった『S』だが・・・、
このときか、と思い返すのはまだずいぶん先の事である。

十二指腸潰瘍

その年の内に、腹痛で町の診療所に行った『S』は、
胃の透視検査を受け、十二指腸潰瘍と診断される。
もらった薬で一時腹痛は治まり、ほっとして年を越すが
北海道での下痢が原因で調子の悪くなった黄門ちゃまは、着々と悪化していた。

16歳の時には70Kgを超えていたこともある『S』は、
18歳になった、昭和60年の3月末には42Kgまで痩せ細り貧血でふらふらしながら、
小田急線、本厚木駅のホームに立っていた。
(黄門ちゃま周辺の異状と、腹痛、食欲不振、体重の急激な減少、
もうこれは、そう、きっとあれですよネ。)

初出社

4月、通信機器メーカーのK工業(株)では、食堂を利用して入社式が行われていた。
その片隅に、所長の挨拶を聞きながら、倒れそうになるのを必死でこらえる『S』がいる。
「何だこいつ、えらい調子悪そうだな。」と、
周りにいる同期の新人たちがちらちらと『S』のほうを気にしていた。
(後の彼らの証言によると、死にそうに見えたという。(笑))
一応、工業高校の電子科を卒業した『S』は、基盤の製造、検査を行う部署に配属になり、
社会人としての生活をスタートさせることになった。
基盤の動作確認の検査をやることになった『S』だが、
このとき彼の黄門ちゃまは周囲膿瘍が悪化して、座るのがやっとという状況だった。
10日ほどは無理をしてがんばっていたが、やはり痛みのため仕事に集中できず、
あがってくる基盤を流すことができなくて、基盤生産ライン全体に迷惑をかけ、
怒られっぱなしである。

そのうちに歩くのもつらくなり、会社も休んで寝込んでしまった。
『S』は、ココまできて初めて、「こりゃだめだな。」と自覚する。
(あとから考えりゃ、なんでこんなんなるまで我慢したんだろ。
わきげのひだり若気の至りってやつですかね〜。)

休職,一時帰郷

さすがに会社からも「いったん帰って、治してきなさい。」と勧められ、
『S』は一時帰郷することにした。
帰りの電車の中でも、痛みのため嘔吐するほど調子が悪く、車掌に心配されながらも、
終点まで3駅ほど乗り越してしまい、駅員に怒られた。
驚く両親と、4〜5件ほど肛門科のある町医者を廻ったが、ひどいところでは、
「なんでもない。」
といわれ、ほかの病院でも座薬を処方するだけで、なにもしてもらえなかった。

母が、痔に効くと聞いてきた温泉に、泊まりこみで湯治にいくが、
1週間で40度を超える熱が出て、そのまま地元ではトップクラスの大きさを誇る、

R病院に直行、即入院となってしまう。
あたりまえである。 炎症を起こしている患部を温めればどうなるか、
ちょっと考えればわかりそうなものだ。
しかし当時はわらにもすがる思いだったのである。
さすがに病院でも怒られた。
 「こういうときは冷やさないとだめなんだよ! 何でこんなになるまで我慢しちゃったの。」
もっともです。はい。

初めての入院

抗生物質の点滴がすぐにはじめられ、炎症が治まり次第切開することになったが、
この炎症がなかなか治まらない。
結局その状態のまま1週間我慢して、炎症が治まらないまま切開した。
排膿して熱は下がったが、傷がいつまでもふさがらず、膿が出つづけ
ガキのころの古傷(尾底骨のところに腫れ物ができて切ったことがある。)
まで膿瘍が広がって、その古傷をもう一度切開。
黄門ちゃまから尾骨のところまで、完全に瘻孔になってしまった。
傷はいつまでも塞がる気配を見せず、ふと気がつくともう10月も半ば。
「痔の治療で入院6ヶ月、ほんとかよ。ひで〜話だぜ。
いつまでもこんなことしてらんねーや。会社首になってんじゃねーだろうな。」
痛みはだいぶ治まってきていたので、傷のほうはガーゼを当てて対処することにして
半ば強引に退院した
『S』は厚木に戻ることにした。
しかし、退院の少し前に『S』は、医師たちの会話の中に不思議な言葉を聞いた。
【クローン】
「何だそりゃ、俺の複製でもできるんかい。」
そのときの『S』の知識はそんなもんであった。

復職、社会人生活

黄門ちゃまの傷以外は、体の異常もなくなっていた『S』は、
同期の新人たちより7ヶ月遅れて正社員となった。
「もう、前みたいにはなりませんよ!」
基盤の動作チェックの仕事に戻った『S』は、
製造ラインの流れに遅れることなく検査をこなしていった。

「なんだ、できるじゃん。」
「あたりまえっすよ。前は体調悪すぎたんですよ。」
もともと体を動かすことが好きだった『S』は、会社のサッカー部に入り、
下手ながらも試合に出させてもらって、楽しい社会人生活を送る。
仕事をして給料をもらって、酒を飲み、好きなものを食べ、自分のやりたいことをして、
2年半ほどは普通の生活を送ることができていたのだが…。
兆候は腹痛だった。
鳩尾のあたりが痛い。
近くの病院で薬をもらい、市販の胃薬と併用して、
「いくらなんでも酒の飲みすぎだよな〜。」(一晩でウイスキー1本、2本はあたりまえだった。)
とごまかしていたが、痛みはだんだんひどくなっていく。
夜も痛みで眠れなくなリ、みるみる体重が落ちて同僚たちから、
「またか〜?  だいじょぶか〜?」
と心配され、今度は早めに と、体を休めついでに、叔母が評判を聞いてきた
横浜の黄門ちゃま病院に入院することにした。(病院名は忘れた。(笑))
別に悪くなっていたわけではなかったが、少々うざったくなってきていたので、
きっちり治してしまおうと思ったのである。
この病院は消化器内科も診ているのだが、特に肛門科のほうが有名らしく
芸能人とか有名人がおしのびで入院してくるらしい。
(『S』が入院する少し前にはラッシャー板前が入っていたといううわさがあった。)
瘻管をそっくり取り除くOPで、いっしょに入院している患者さんたちの中では、
かなりひどい症例だったらしい。
(単純な一本だけの瘻管だったのだが…。)
入った次に日には切って、10日ほどで退院となる。
(前の入院はなんだったんだ。)
しばらくは通院しなくてはならないため、横浜の叔母の家に厄介になっていたが
黄門ちゃまはともかく、腹の具合が一向によくならないので
病院で相談すると、上と下から内視鏡検査をしてくれるというので、頼むことにした。
結果は、潰瘍性大腸炎の疑いあり。とりあえずサラゾピリンを処方され、
安静と詳しい検査が必要、ということだった。
(このときの彼には、潰瘍性大腸炎に対する知識も興味もなかった。)
叔母は、あまりにも痩せた『S』を見て
「会社を辞めて田舎に帰れ。ちゃんと体を治せ。」
と、強く勧めたが、彼はまだ帰る気はなかった。
「たかが大腸炎、たいしたことねーや。まだまだ遊ぶよ〜ん。」
結局詳しい検査はせずに、薬だけもらった。
無知とは怖いものである。

ギブアップ

会社に戻った『S』だったが、調子は決して良くはなかった。
腹の痛みは、よくなるどころかひどくなっていた。
夜中に痛くて転げまわり、食欲はまったくない。
酒で痛みをごまかしながら何とか我慢していたが、平成元年10月
(多分このころだと思います。
HDDの容量が足りない人なのでよく覚えていないんです。(笑))
ついに彼は田舎に戻ることを決意した。

帰るのはいやだったが、近くに頼れる人がいないのではどうしようもない。
自宅に戻った『S』は、横浜の病院でもらったサラゾピリンのおかげか、
慣れた土地に戻ったせいか、体の調子も良くなってきたので、
深く考えずにしばらくは普通の生活を送っていた。
前述の悪友が独立して、自分で商売をはじめたので、仕事はそこで世話になる。

月一回の横浜までの通院も遊びに行く感覚で、6回ほど通った電車代、
病院の支払い、食事代、すべて病院の待ち時間のパチンコで稼いだ。
(このときしかパチンコで勝った記憶がない。(笑)
しかし横浜までの通院は1日がかりである。
めんどくさくなった彼は、紹介状を書いてもらい地元の病院に通うことにした。
現在もお世話になっている市立K病院である。
内科で受診するが
「潰瘍性大腸炎?、日本には少ない病気だよ。少し様子を見ましょう。」
うーん、本気でとりあってくれないな。
体調良くなってきたからまあいいか。
調子の悪いときのことなどすぐに忘れてしまう性格が災いして、
前と同じ不規則な生活を送るようになる。
好きなもの、好きなこと、悪くなるのは、あっという間だ。
平成2年の夏には、また絶不調モードに入ってしまう。
腹痛、食欲不振、体重減少、貧血、下痢、食べてもすぐ吐いてしまう、
気にならない体質なので計らなかったけど多分発熱

黄門ちゃまだけは、横浜での治療のおかげで、
何とか持ちこたえていたが、それ以外はもうボロボロ。
CDの症状のオンパレードである。
仕事中にも痛みがひどく、動けなくなってしまい友人にも迷惑をかける。
「どうなっちまったんだ。俺の体は。誰か何とかしてくれ…」

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